WBC、日本が10-6でキューバに勝って優勝してしまいました。
二次リーグ1勝2敗のときは、もはやこれまでと思ったものですが、あきらめない気持ちはつくづく大切だと思います。
縁日に行っていてリアルタイムで見られなかったのですが、縁日のお寺のお札売り場で携帯テレビを見ている檀家さんがいて、リアルタイムで情報が入っていました。6−5になったとき”逆転負けするのかな?”といたたまれなくなり、出店まわりに行きました。
昨日、谷川連邦の仙の倉山(2026m)で神奈川の登山パーティが事故を起こし1人行方不明、1人重態と言うニュースが流れました。
県境の山で「新潟県の」とい報道していたので、新潟県警が受けた事故だなと判断しましたが、遺体回収などこちらの山岳会などが出ることもあるので、一応装備だけは整えておきました。2名が亡くなりヘリでおろしたようです。凍死だそうです。
凍死に至る場合、衰弱して徐々に死んでいくように思えますが、その前にパニックになってとんでもないところを歩いたり、目標を見失って奇妙な行動をとるものです。結果的に体力を消耗して死ぬのですが、じっとその場で耐えて待つことはものすごい苦痛です。凍死死体は往々にして登山道から外れた”なんでこんなところにいるの?”と、とんでもないような場所で見つかるものです。
パーティーから外れてパニックになったんでしょうね。通常、一番強い人が最後尾を歩くものですが、そのセオリーを無視して「ベテラン」と言うのはどうしたものだろう?ハイキングの延長だったんでしょうね。
仙の倉山。なだらかな山です。

高齢者登山の典型的な事故で「遭難」とはいえません。昭和30年代の登山ブームの時、仙の倉では5月に凍死事故も起きています。同じ日に谷川岳の一の倉の衝立岩で横浜蝸牛山岳会が宙吊り事故を起こし、遺体回収ができず、自衛隊が射撃でロープを切断する事件が起こりました。
今日はその一の倉でも身動きできなくなった登山者を県警のヘリで救出する事件がありました。ともあれ、無事で何よりです。
縁日のお寺から谷川岳はよく見えるのですが、今日は強い風と雲のカナで見えませんでした。多分現場は吹雪だったでしょう。
春分の日と秋分の日は月夜野の茂左衛門地蔵尊の縁日です。
江戸時代に藩主の悪政を農民が幕府直訴に成功した礼は2件しかありません。千葉の佐倉惣五郎と、沼田藩の杉木茂左衛門です。
佐倉惣五郎の物語は斉藤隆介さんが「べろだしチョンマ」と言う物語にして、広く日本中で読まれています。
町村合併のおかげで9月の縁日から私の村からも交通指導員がでることになってしまったので、いつ駐車場整理のお呼びがかかるのかわからなくなります。のんびり縁日回りするのも最後です。

茂左衛門の縁日と言えばかつては上越線に臨時列車が出たほど賑わった縁日でした。
参道を境内に上がっていくと線香を売っているお婆さんがいました。
1960年代末まではこの場所には傷痍軍人がいて、アコーディオンを弾いたり、軍歌を歌ったり、ハーモニカを吹いてお金をもらっていました。
戦後25年になろうとするのに、こういう人がいるのだな不憫だなと思いつつも、自分の負傷を商売の道具にしていると子供心に思ったものでした。

このあたりでは比類がないほどで店が立ち並ぶ縁日でしたが、何の縁日か?なんてことはまったく考えていませんでした。
ここがお寺だったことを知ったのが高校生の時です。それまで、何にも考えないで出店見たさに来ていました。

茂左衛門の縁日に行って有り金みんな使い果たして、帰りのバス代も使い果たして十数キロの道のりをを家まで歩いて帰ってくれば一人前!というのが我々の小学校時代の慣わしでした。
”どれだけ遠くまで歩けば 大人になれるの?どれだけ金を払えば 満足できるの?”
ボブ・ディランが「風に吹かれて」で歌い多くの若者の共感を得ていた時代。私達カギ共はすってんてんになって、茂左衛門の縁日から風に吹かれてながら歩いて家まで帰ることでその答えを知っていました。

お寺があって縁日があって出店あるのではなく、出店が全てでしたから、お寺が縁日に出てきていると考えていたのが子供の頃です。
賽銭のお金と線香を買うお金ももらってくるのですが、そんなもん、すぐに腹の中に入ってしまいました。おでんがコンニャク、さつま揚げ、ちくわが10円、玉子が20円の時代でした。玉子は高くて買えませんでした。
お寺の近くには居酒屋の売店があり、戦争に行って死に損ねた中年のおじさんたちが酔っ払っていきまいていたり、喧嘩していたり、大人と子供の距離ははるかに遠いものでした。不満が渦巻いていることは今の時代も変わりないのでしょうが、はけ口が多様化しているだけ今はよいのでしょうか?

子供の頃はここでおみくじ売っているのもテキ屋のおっさんだと思っていました。このお寺の檀家の代表ですが、どうも胡散臭く見えてしまいます。知らないおじさんは怖いと言うのが私の子供の頃の身の安全。そういえば今年の初詣は私も旦那寺の檀家代表でおみくじ売っていたっけ。
この売り場のおじさんがお風呂で見られる小型テレビを持ってきていて、お札売りながらテレビを見ていました。日本が急場に勝った試合終了のときは、出店回りしていましたが、こちらで歓声が上がったのでわかりました。

おみくじで花が咲いています。シベリアに行くと願いを書いた布を木に結びつける風習があります。ロシア人のものではなくモンゴル系民族の習慣ですが、道の辻などの木に色とりどりの布が結び付けられています。モンゴルではオボーと呼んでいたと記憶しています。

絵馬が奉納されていましたが、こちらで絵馬が一般的になったのは比較的最近のことだと思います。

ここで杉木茂左衛門は貼り付けになったといわれています。その後沼田の領主真田伊賀の守は解任、おとりつぶしになり、真田支配は終焉します。真田の後沼田の藩主は松平になりました。

こちらは太平洋戦争の戦没者を祭った忠霊塔です。高校生が2人たこ焼きを食べていました。

「かならずあたる」金額に見合わないへんなものが当たるだけですが、昔は「スカ」なんて出て何ももらえない詐欺のような出店がありました。こういうのも私が小学校の頃に法改正で何かしら渡さなくてはならなくなりました。

鍛冶屋さんの直売。昔は農家もこういうところで農具を買ったものですが、今は農協が民業圧迫?しています。

来て早々に鍬を買い込む年配者夫婦。鍬を担いでこれから参拝みたいです。結婚の到達した姿はこれが理想だと思うのですが。

「んけゃぢばそ焼」なんだ?新種の料理か?と思って覗きに行ったら広島風焼きそば。「焼そばぢゃけん」でした。

リンゴ飴。蒸かしたリンゴの表面を水あめでコーティングし冷やしたもの。中国にもアンズ飴と言う似たのようなものがあります。子供の頃は焼きリンゴと言うのがあって、蒸かして暑いリンゴに甘いシロップをかけたもので、とてもおいしかった記憶があります。紅玉と言う酸味の津世リンゴを使って作るものでしたが、今はその紅玉が幻のリンゴになっています。

こちらのほうが中国のアンズ飴に近いですね。

水を入れて鳥の鳴き声を出す笛。私が子供の頃は陶器でしたが、やがてプラスチックになり、最近はガラス製です。

山なので、海産物は貴重品でした。こちらの縁日に海産物はつき物です。

イカのくちばしイカトンビ。炭火で焼いたものを試食したらあまりにもおいしかったので買ってしまいました。

ブロマイド売りなんてまだあったんですね。しかも、ほとんど知らないタレントばかり。かつてはブロマイドと言えば写真でしたが、今はポスターです。写真館のラボでプリントされるのか印刷工場かの違いです。

売ってるオヤジは怪しそうな顔をしています。最近、一目見て人相の悪いオヤジが少なくなりました。

最近こちらのお祭などでよく目にするようになったトルコ料理のドネル・ケバブ。トルコ人のお兄さんが売っています。

世界三代料理は中国料理とトルコ料理が双璧。残りの一つをイタリアとフランス料理が争っているそうです。
ところで何の肉だろう?豚肉ってことはないし、牛でもない、ってことは羊?

物珍しさもあって客が並んでしました。やはりこうしたものは日本人が売るよりもその国の人が売ったほうが本物っぽく見えます。
ところで、彼の就業ビザはテキ屋の親分さんが保証人になって取得したのだろうか?などと余計な勘繰りをしてしまいます。

金魚すくい。。最近は見かけなくなりました。

ミドリガメすくい。このオヤジ昔はひよこを売っていたオヤジです。孵化場で鑑別師がオスを判別したヒヨコだけ二束三文で買って行き(おスのヒヨコは買い手がいないと豚の餌です)、メスと看板立てて売っていました。鳥インフルエンザでヒヨコも姿を消しました。
子供の頃はここでヒヨコを買ってきて、半年後の縁日の頃には鍋なっていました。ヒヨコは羽が生えるまで自分で体温調節できないし、米など硬い餌を消化する力もないので、孵化して一月程度までは手間がかかります。それを知らずに買って死なせるのがよくあるパターンです。

型抜き。まだこんなものが存在していたんですね。私が小学校の頃は一回10円でした。手持ちの小遣い(3〜500円くらい持って来ていました)が少なくなると、型抜きにバス代を託します。うまく削りだせても、「ここが悪い」とかいちゃもんをつけ、ひどい時には自ら手で欠いて「割れてたじゃねえか」と踏み倒すテキ屋のおっさん達。
信用できる人とできない人がいるということをこういう場で学んでいました。

茂左衛門地蔵は子供の守り神なので、子供が主役です。「良い子になりますように」と子供たちがお参りに来る縁日ですが、娑婆の厳しさを学んで子供がずるくなる場でもありました。
恐い連中(中学生が多かった)もいたので、小学校高学年になるといじめられることがあるので、手ぬぐいに石を入れてズボンのベルトにぶら下げて自衛していました。楽しい場所と恐い場所が紙一重だった気もします。
4歳下の弟が生まれたとき、父とこの縁日に来て弟の記念樹に富有柿を買って来たおぼえがあります。柿木は今も健在ですが、こちらでは夏の積算気温が低くて富有柿は甘くなりません。40年たってこの柿が甘くなったのはたったの3回で、記録的な猛暑の年でした。
柿が甘くなるようなところには住めないとしみじみ思う山岳民族です。

こちらでは5月中ごろに咲くクルメツツジ。今うっかり植えては木が弱ってしまいます。

自分が生きてきた人生はそれほど変化していないように感じていますが、久し振りにこうしたところに来て振り返ると、世の中や人の考え方も変化しています。振り返ると、今のハルビンやウラジオストクに自分の幼少期の雰囲気が多分に残っていると思います。素朴なのか発展途上なのか?一概には言えませんが、たくさんある魅力の一つかもしれません。