ロシアに限ったことではありませんが、外国から帰ってくると”日本の夜って明るいなぁ”とよく感じたものでした。
もちろん、夜の明かりが人工的な電球の明かりですが、その国や町の経済的な発展と共に、夜の明かりも変化していくものです。
私が幼少の頃、もちろん既に我が家の界隈に街灯はありましたが、近隣の組で街灯の当番と言う役割がありまして、10日に一度くらい各家庭が夕方に街灯のスイッチを入れる当番がありました。
面倒な回り版ですが、私にはこの当番が回ってくるのが楽しみで、要は、街灯のスイッチを入れるだけなんですが、これをやりたい一心でこの当番を待ちわびていました。
やがて、水銀とうなるものが出てきて「暗くなると自動的に明かりが灯るんだ。」と、街灯当番がなくなり、「いつ電灯が灯るのだろう?」と、電灯が灯る瞬間を見ようと、夕方暗くなる頃に子供達が集まり、街灯を見上げていたものです。
夜の明かりも当たり前になり、外国に行ってはその夜の暗さにあらためて思い起こして、一歩か二歩先んじているだけのことを感じました。
初めてウラジオストクに行った頃は電力不足の最たる時期でしたが、年々夜の明かりは華やかになって行きます。

夜景が華やかになることが、はたしてよいことなんだろうか?という疑問を投げかけられるのも、恵まれた夜景の中で生活する人間の戯言なんでしょうが、日ごろ当たり前になっている夜の「明かりに」について考えることも面白いものです。
「照明」と「明かり」について、私のイメージの中では微妙な差異があり、日本のそれは「照明」なんですが、ロシアのそれはまだ「明かり」ではなかろうか?なんてことを時々考えます。その違いはなんだろう?と考えると、明かり元に人の気配があるかないかのような気がしますが、もちろん、無機質な日本の白い明かりの元に人がいないわけはないのですが、その輝きは人以外を照らしているように感じることがあります。
周囲が暗いこともありますが、ウラジオストクの明かりは妙に人懐こさを感じますし、闇の中は「悪」の蠢く世界です。

山奥の我が家では天気の良い冬の夜は月や星の明かりと地上の雪の反射が呼び合っていますが、「最近、星を見ることが少なくなったし、以前よりも星が見えなくなった」とウラジオストク人が語っていました。
我が家に来れば古きよきロシアを思い起こせるのかな?と問うと、「日本のシベリアでしょう。珍しくも無い。」