「奇跡のリンゴ」の木村秋則さんの講演会に行ってきた先輩に話を聞きに行ってきました。
20代30代の若い農業後継者が多数公演にきていたそうで、「日本の農業もまんざらすてたもんじゃない。若い連中に期待できる思いがした。」と喜んでいました。
いまや免罪符のようになってしまった有機農法に対しての自然農法で、農作物を観察しながら必要最低限の手助けはするが、余計な手間はかけない農法。「誰かさんの畑のようだ」とからかわれましたが、私も時代の先端を行っています。私の場合、面倒だから余計なことはしないだけで、しっかり農作物と会話して必要最低限のことは気が向いたら手助けしているので、時折思いがけない収穫がもたらされる理念なき結果的自然農法!
だいたい、自然に対して人間が頭で考えることにろくなことはありません。有機農法にしたって錦の御旗になってから次第に胡散臭くなってきて、宗教ぽくなってしまった感があります。
健康が云々、アトピーが云々、自分たちが安全に食生活すらことには熱心ですが、生産する側が食っていけるかどうかなんてことは蚊帳の外。
私の地元に有機農法で入植してきた若い農家も、借金抱えたままどこぞにドロンしてしまった噂も聞いています。
年金暮らしの余裕で農業ならまだしも、経済的に成り立たなければ、きれいごとより質より量のジレンマ。

有機農法や自然農法への関心が高まってきた90年代初頭、私は農政の仕事をしていました。根がひねくれているので役所の考えと正反対のことにシンパシーを持つ性格です。線引き、カテゴリーわけが難しい有機農法は役所にとって管理が難しい。役人の考えることにろくなことはないので、役所が嫌がるということは良い事だ。こういう思考ですから左遷街道まっしぐらでした。
福島正信の「わら一本の革命」。今にして思えば自然農法のさきがけですが、話題になった本でした。福島正信氏はアジアのノーベル賞と言われるマグサイサイ賞を受賞した農民ですが、本を読んでみて感じたのは、理念ばかりで具体的な農法はさっぱりわからん。それもそのはずで余計な頭を使わず、作物を観察することからはじまるので、手順からはじまる工業的農法とは別次元。
考えないで感じることからはじまるのだなと解釈しました。
その頃、農業のシンポジウムに仙台に行く機会があり、やはり、若い世代が有機農法について持論を交わしていましたが、有機農法賛美の流れの中、秋田の出版社の無明舎を主催するあんばいこう氏が「無農薬だ、有機農法だとこんなところ傷をなめあいしても、食って行けなければただの負け犬の遠吠え。消費者は生産者のことなど気にもしていないのだから、きれいごとを唱えていれば何とかなると思う甘えはすてろ!」と釘を刺し、さすがだ!と感心しました。賛美者の大方は農産物で生計を立てている人ではなかったので、どこか説得力に欠けると思っていましたが、あんばいこう氏はそこだったのか!と感心するポイントをついていました。
このシンポジウムで福島正信氏の弟子を名乗る農民に会いましたが、野良着に地下タビのいでたち、名刺にまで理念を書き込んでいる理論武装したおじさんで、この時点ですでに「自然」から遠のいた存在に思えました。土作りが云々、土壌の微生物が云々、厩肥と堆肥の違いは云々とご高説を賜り、そんながんじがらめの思考で自然農法が成り立つのか疑問に思いました。今頃どうしているのだろう?

農作物を意のままにしようとしてしっぺ返しを食らっているのが現代で、考えてみれば教育だ躾だと出てきた芽を闇雲に摘み取っているのですから、思考力もなければ病害虫に弱くもなるし実もつけなくなる。
あえてロシアと名前は挙げませんが、扱いにくいことこの上ない結構プリミティブな某国の奥様など自然農法の精神で育むのが一番で、真っ直ぐなキュウリにしようなどと思い上がって枠にはめて締め付ければとんでもないことになります。かといって野放しにすると人類が立ち入れないジャングルになってしまうので、「どっちかな?」と迷ったようなときに手助けしてやる程度で良い森ができる、長い目で見る林業のようなもの。